あるイギリス人女性の朝鮮大冒険
今からほぼ100年前の1907年,
あるイギリス人女性が朝鮮に旅行に行きました。
大韓帝国の時代であり,日本に併合される以前の,
朝鮮王朝最晩年の時期であります。
さて,半島にはどのような世界が広がっていたのでしょうか。
視覚的にも追体験するため,
当時の古写真などを本文に付記してみました。
それでは,めくるめく朝鮮ワールドへの
Virtual trip をお楽しみください。。。
【参考文献】 Ethel HOWARD,Japanese Memories. (1918)
▲ エセル・ハワード Ethel HOWARD (1865-1931年)
1907年のある時期に,下の子供たち3人を朝鮮と中国へ旅行に連れてゆく許しが出たが, これは私が公爵(*島津忠重: 1886-1968)や顧問の人たちから信頼されていたことを示す大いなる証拠といってよいだろう。 <中略> この旅行の計画が知れると,それに反対する何通かの手紙がいろいろな友人から送られてきた。その友人のある者は,以前その地方を旅行したことがあり,衛生上およびその他の見地から,この計画をやめるように強く忠告してきた。 <中略> われわれは医学書をたくさん抱え込み,大きな薬箱を提げて旅行に出発したのである。 |
▲ 下関 (現・山口県下関市) 1878-88年頃
ハワードらは下関から「対馬丸」という船に乗り,釜山に向かった。
▲ 衛生上の問題・・・
われわれが,朝鮮への第一歩を印すべく釜山の港へ着いたのは午前9時半頃であった。 船から見ると,丘は砂山で暑そうに見え,木が一本もなかった。 土は茶褐色をしていて,日本の土とは全然違っていた。港には,三隻の日本の小型巡洋艦が停泊していた。 |
▲ 釜山港 1906年9月10日
▲ A small village near Fusan, Korea. 1904年
▲ 白衣の群集
西洋婦人の往来を見物する人々。撮影年代不明。
上陸して最初に私の目をとらえたものは,朝鮮~人の人夫の長い行列で, 背中に荷物を背負うための木の板を括りつけていたが,それは荷物がなくともそれだけで大変な重さであった。 後で道端でその中の一人が休んでいるのを見かけたが,彼が背中から板を下ろして私に背を向けたのを見ると,それは全くの裸であった。最初私は,彼が背中いっぱいに入れ墨をしているのかと思ったが,よく見ると木の板が皮膚を押し付けて一面に青い痣になっているのだった。 <中略> |
▲ 釜山船着場で陶器を運搬する陶器売り 1903年
▲ (左)陶器売り
(右)背負子で陶器を運ぶ人 1910年
▲ 木製の背負子
私の聞いた話では,普通の朝鮮~人は1着しか着物を持たず, それも洗っている間は家にいなければならないという単純な理由から, 滅多に洗濯しないということだった。また,同じ理由で雨の日は働かない。
既婚の男は髪の毛を頭の上で小さな髷に結っており, 未婚の男は髪を真ん中で分け,後ろ側で弁髪に編んでいる。 朝鮮~人が高い帽子をかぶると,この髷が透けてみえるので面白いと思った。 帽子が蝿帳のように,ある程度透けてみえるからである。 時によると,彼らは帽子を雨や日光から守るために, 小さな油紙で張った1フィートぐらいの長さの笠を帽子の上につけていることがある。
朝鮮服の奇妙な特徴は,腹部を丸出しにしたままであることで, それを除けば人々の服装はかなり整っていた。 彼らは,両足の間にぶら下げたスコットランド人の下げ皮袋のような袋に, お金や煙草を入れて持ち運び, 歩くときには日本人が使っているような長い煙管を手に持っている。 人足が働く時には,煙管やマッチ箱をどこかしらに押し込んでしまうが, 大抵の場合は,頭上に括りつけた衣類の間からそれらがのぞいているのが見える。 <中略> |
▲ (左)朝鮮 服装 シーボルト 『NIPPON』 (1832~1851年)
(右)庶民の服装
たしかに股間に何かぶら下げています。そして下着がありません。
▲ 1着しかない服が濡れると困るので,水辺では服を脱いで労働します。
(下着が無いため,脱ぐと素っ裸ですw)
▲ 人力車詰め所 1907年
▲ 人足 1907年
慶煕宮の正門・興化門前。
汽車で旅行すると,方々に所かまわず土が盛り上げてあるのが見えるが,それは墓らしかった。それらの墓には名前もついてないし,碑文を刻んだ墓石もなかった。 なぜなら,朝鮮~人は死者を葬るのに気の向いた所に, 水田でもどこでもお構いなしに葬るからである。 <中略> |
▲ どこかに墓が写っておりましょうか?w
朝鮮の子馬は非常にかわいくて,私が思うにはウェールズ種の子馬よりさらに小さいようだ。子供たちは,その中の大変かわいらしい1頭の子馬をとても欲しがった。 <中略> |
▲ 左が朝鮮馬。ちなみに右は日本の在来種w
▲ ちなみに,これがウェールズ種の小馬 (Welsh pony)。w
通りは,ぶらぶら歩いている土地の人々で混んでいた。 彼らは普通,一方の手に煙管を持ち,もう片方に団扇を持っている。 <中略> |
▲ 鍾路 1907年
朝鮮~人は皆,軒を接して建てられた藁葺小屋に一緒に住んでいるようだ。 屋根には一列に縄が張ってあったが,それが美観のためか補強のためか私にはわからなかった。強風が吹いていたから,おそらく後の理由だろう。 われわれは歩を進めて,小屋の中を覗いてみた。壁は土で塗り固められ,窓は非常に小さかった。床には茣蓙が敷いてあり,あたりに,寝るとき枕に使う木の台が散らばっていた。 <中略> |
▲ 独立門周辺 1907年
西大門外,道は義州路。
▲ 民家 1909年
人々の身なりは汚く,子供たちの多くは着物を着ていなかった。 彼らの髪の毛は日本人のように黒ではなくて, ある種の色がある――あるいは埃をよく払い落とせば色がわかるだろうといったほうがよかもしれない。 とにかく,そこいらじゅう埃だらけで大変だった。 <中略> |
▲ 豚を運ぶ人たち 1910年頃
▲ (左)洗濯に行く女人と子供 1910年
(右)Korean Girl Carrying Baby
宮殿は,建てられてからまだ50年しか経っておらず,現皇帝の父君が建てたものであった。 彼はこれを建てるために民意を抑えて人民に重税を課した暴君であった。 その建築途中で,恨みからたくさんの材木が燃やされたが,皇帝は事業の続行を命じた。 それは,周りを丘で囲まれた眺めのよい場所に建っていたが, 樹木が建物を建てるために切り倒されてしまったので,田園風景は丸裸も同然であった。 <中略> |
▲ 景福宮 北東から南西を望む
左端の二階建ては勤政殿。右手の大きな屋根は慶会楼。王宮のすぐ隣には藁屋根の集落w
建物そのものは完全に中国風であった。 われわれは数多くの大きな門をくぐっていったが,正門は2階建ての塔になっていた。 それを通り抜けると石畳を敷いた大きな中庭があり,そこには雑草が生い茂り,全く手入れされていなかった。 門の反対側に,宴会のために使われる大きな集会堂があり, その屋根にはあちこち一面に小さな動物の形の石像が飾ってあった。 暑さの中を歩き回るのが疲れてきたので,とうとう私だけ休むことにして, 他の人たちに先に行ってもらうようにした。 私は緑色をした川の流れのそばに腰を下ろし,1人の女が衣類を洗濯しているのを見ていた。衣類は黄色や茶色に見えるほど汚れていたが,彼女はそれを木の棒で何度も強く叩きながら,緑色をした汚い石にこすりつけた。 衣類のためにはそんなやり方はよくないと思うが, その効果は抜群で,衣類は真っ白になった。 <中略> |
▲ 光化門 1907年
景福宮の正門。背後の三角形の山は北岳山。
手前の門に続く広い道は六曹通り。朝鮮の政治の中枢機関が集中する。
▲ 弘礼門 1902年
雑草の生い茂った中庭w
▲ 慶会楼 1902年
▲ 洗濯風景 1930年代?
私が特別の計らいで彼(* 伊藤博文)の家を訪問した時,彼の身の回りの質素なこと, そして,富を象徴するような飾り物が一切無いことに心を打たれた。 伊藤侯爵は現世の宝を崇拝する人ではなかった。彼が死んだ時,その遺産はほんのわずかしかなかった。 われわれ一行が彼のところを訪れて歓迎を受けた時,彼が大変親切で思いやり深く, その態度の慈愛に満ちていたことを,今でも目の当たりに思い浮かべることができる。 彼の朝鮮統監への任命には,困難かつ重要な仕事が付随していた。 その一つは,若い皇太子(むしろ朝鮮の新皇帝というべきかもしれぬが)の教育の問題であった。 かかる偉大な人物が,暗殺者の手にかかって最期を遂げたことを思うと,本当に痛ましいとしかいいようがない。 |
▲ 韓服をまとった伊藤公
女性にとって,このような野蛮国の旅は,
さぞかし大冒険だったことでしょう。
文面からもその大変さは推し量られます。
まあ,宿は清潔で文明的な日本旅館に泊まってたようですけどねw
▲ (上)原住民の好奇心: 英国女性を見物する朝鮮~人
(下)朝鮮の路傍の宿屋
思えば100年で随分立派になったものです。
ただし日本に近い南半分だけね。
北は変わらずw
(=´ω`=)y─┛~~