あまりにもうるさいので
根拠として騒いでいる古文を訳しました
下はまとめた文です。
また写真資料は一部です(ファイルがでかすぎる。)
mmc2006 さんよりhttp://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/naimu_ukagai.pdf
oppekepe7 さんよりhttp://www.geocities.jp/take_8591/100-siryou/061224/index.html
かなり飛ばして訳しましたので後々誤記は修正します。
とんでもないことがわかりました。
竹島編纂についてのいきさつです。
明治政府により地籍再検討されたのは
明治10年3月17日です
何故改めて再検討されたのかは、旧政府(徳川幕府)の記録文が発端です。
元禄9年正月の天皇への幕府からの報告書に記載されている内容には、
『元禄12年』にいたるまで日本政府(旧幕府)に無断で朝鮮_人が上陸し往来していたことが発覚。
国の主権の問題であり重大ごとにつき緊急のトップ会議が行われました。
竹島に関しての生態・位置・景観にいたる詳細の文になります。
そもそも島が発見されたのは、
越後から船で交易の帰りに際し商人の船が風で流され遭難しかけたときに発見したそうです。
最初の日本側の発見者は米子町人・大屋(大谷)甚吉です。
そのとき全島を視察し島の生態に関して記録したのが上記のくだりです。
その後帰国し当時幕府より派遣されていた代官の安部四郎五郎に報告し
この者の紹介を通じ政府(江戸幕府)の許可を得て以後竹島に往来を始めたそうです。
(当時の幕府は豊かな漁場の関係からこの竹島周辺を領海内に記録しました。)
その後、村川甚平とともに毎年この島に往来を続けたそうです。
そうしてるうちに日本の所属であることを正式に確認しました
そのうちに大屋甚吉は航海途上でなくなりました。
ところが永禄7年のある日無断で朝鮮_人が上陸してきました。
元々渡航し上陸していた日本人は少人数のため急ぎ本国(日本本土)に戻り
この重大事変を日本政府(徳川幕府)に報告しました。
幕府は翌年、当時の軍隊を派遣し無断上陸していた朝鮮_人を駆逐しました。
その際2名の捕虜を確保し、日本に引き上げました。
その後、朝鮮政府と協議した結果、
朝鮮政府は日本政府の所属であることを認め
その代わりに朝鮮の漁民の漁業を認めることに決まりました。
日本政府は以後朝鮮政府との取り決めにより、
朝鮮_人の漁業に関して竹島への渡海を許可した
永禄9年正月
他の資料はその時々の許可証や上申書です。
また朝鮮政府との取り決めに関する文もあります。
明治10年3月に議題になった内容の文はこのいきさつから関連しています。
要するに
廃藩置県に伴う国土地籍の再編纂の再この文が見つかり、
竹島周辺の朝鮮_人の往来に関して新政府は関与せず所属は日本にあることを明記した内容です。
またまた捏造からの壮大な自爆でした。