1998(平成10)年4月、軍事法廷で有罪となった45人全員の「供述書」を中国から入手した報道写真家が、これらを朝日新聞社と共同通信社に持ち込んだ.
45
人のなかには鈴木中将を含め師団長が3人、満州国の高官など高位者が多く含まれていた。「供述書」には虐殺、慰安婦狩り、毒ガス作戦など新聞社の喜びそう
な記述が溢れていたので、朝日はもとより共同通信社に加盟する地方紙の多くが飛びつくことになった。この中で、慰安婦狩りの証言者は鈴木中将ただ一人だっ
た。
この写真は「福島民友」の紙面(1998年4月5日付)
「慰安婦連行」軍の命令 と白抜きの大見出し、その下に 侵略の全体像浮き彫り 、タテには 旧軍の中将が認める とある。
見出しを読んだだけで、慰安婦強制連行が疑う余地がないものと受け取れる。記事を見れば、「高級将校が慰安所の設置や連行を認めた九三年八月の政府調査に関する官房長官談話をあらためて裏付けた形になった」
とあることから、強制連行は既定の事実だと読者はあらためて理解することとなる。
鈴木師団長の「供述書」の該当部分は次の2ヵ所にでてくる。以下全文。
「日本侵略軍の蟠居する所に私は各所(豊潤、砂河鎮其他二、三)に慰安所を設置することを命令し、中国人民婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。其婦女の数は約六十名であります。」
「日本侵略軍の蟠居地には私は所謂(いわゆる)慰安所の設置を命じ、中国並に朝鮮_人民の婦女を誘拐して所謂慰安婦となしたのでありまして、其の婦女の数は約六十名であります。」
前者の供述は27師団の隷下にあった第27歩兵団長時代(少将)、後者の供述は第117師団長時代(中将)のもの。
鈴木中将は帰国後に長文の「手記」2編を書き残している。このなかに慰安婦についての言及はまったくない。
この供述に対し 当時の関係者は真っ向から否定している。
前者の供述については、鈴木歩兵団長の副官経験者2人を含む約20人、後者は副官1人を含む数人に聞いたところ、全面否定だったとの話がある。
高級副官が空席であったあったため、次級副官として鈴木歩兵団長に仕えた炭江秀朗 は、「昭和17(1942)年4月から副官であったので、冀東作戦(きとうさくせん)はすべて作戦命令に目を通してきた。歩兵団長の意向を受けて作戦命令を起案、裁可を得る。副官の側印がなければ作戦命令は出せない。だから、慰安婦狩りが事実なら知らないわけがない」と明確に否定した。
鈴木が師団長時代の副官・森友衛 も「聞いたことがない」といい、「師団長の人柄からしてあり得ない」と話す。師団長は「古武士風」「謹厳実直」、酒、タバコに縁がなく、習字や読書で過ごすことが多かったという。
「供述書」記述を全面的に信頼できるとする藤原彰 ・元一橋大学教授は次のように書いている。
〈毒
ガスの使用、細菌戦の準備と実行、慰安所の設置と「慰安婦」の強制連行などが、軍による組織的行為として行われていたことも明らかにされている。これらの
ことが、高級幹部自身によって自白されており、しかも相互に関連性をもっていることは、現在の戦争責任問題にとってもきわめて有力な史料ということができ
る。〉
さて、真偽の程は如何に?