■台湾人SAI KONSANの著書
「台湾人と日本精神」
~日本人よ胸を張りなさい~
から抜粋。
◆1945年8月15日・・・
1945年8月15日、日本は敗戦した。 山奥での作業中に年輩の日本兵(教官)が「負けた!」と隊からの伝令を話したまま、呆然と立っていた。 我々(台湾人生徒)は何が起こったのか全く分からなかった。 (中略) しかし隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを表現していた。 しばらくして、敗戦の事実が我々、台湾人生徒にも正式に伝達された。 悔しさと無念の気持でいっぱいになり、溢れる涙で頬を濡らした事を鮮明に覚えている。 無性に悔しかった。 他の台湾出身生徒も同じ心境だった。 しかし、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、衣服倉庫を集団で強奪していた。 滅茶苦茶な暴虐・強奪の有様だった。 我々は複雑な心境でそれを眺めていた。 (中略) 敗戦は、それまで1つだった国民を3つの国民に分けてしまったのだ。
◆1945年8月17日・・・
そして8月17日の夕方、連合軍の命令で武装解除が始まり、日本人は復員する事が決定した。 (中略) しかし日本人がいなくなると、武器倉庫や飛行機etcの警備が出来ない。 そこで連合軍が来るまでの約2ヶ月間、「学校・練習場・格納倉庫・武器倉庫・飛行機」etc・・・全ての軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守る事になったのだ。 「朝鮮人は信用できない。だから君達(台湾人)が守ってほしい」・・・そう言い残して日本人上官は去った。 台湾人生徒はこれまでの経験に照合し、了解した。
◆帰国の為に汽車で日本の九州へ・・・
急な日本の敗戦で、私は心の切り替えが出来なかった。 日本兵の軍服で汽車に乗っていた私は、周囲からは敗戦で消沈した日本人に見えたのだろう。 8月15日から急に横暴になった朝鮮人に嫌がらせされた。 座席に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれた。 取り返そうとすると、「お前はなんだ!朝鮮人を侮蔑したな!降りて来い!」と、たちまち数人に囲まれてしまった。 一人と多数・・・勝てない・・・。 「ごめんなさい。私の勘違いでした」と謝り、ピンチを逃れる事しか出来なかった。 それから佐世保に到着するまでの30時間・・・朝鮮人は執拗に私と日本人乗客を苛め続けた。 若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、「次の駅で窓から降りろ!」と命令し、苛めていた。 朝鮮人の酷すぎる情けない行為を、私は内臓が沸騰するような怒りを感じながら眺めていた。 黙って見ているしか出来なかったのだ・・・。 (中略) 佐世保のキャンプで私は面白い場面に遭遇した。 あの朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章を着けた我々にお世辞を言いながら擦り寄ってきたのだ! それは中華民国が連合軍の一員であったからだ。 弱者には傲慢で、強者には媚びる・・・。 そんな朝鮮人の極端な習性を私は目撃したのだった。 しかし、大国の狭間で生存しなければならなかった環境が、そうした民族性を育んだのだから、今更、それを責めても仕方が無いだろう・・・。
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